今日はメーデー。
労働者が団結して待遇改善や権利を要求する日ですが、それに関連して今日は大阪市電で起こった労働者のお話。
1924年7月、大阪市電の労働組合が起こした「電車ストライキ」をご存知でしょうか。
2,400名もの労働組合「西部交通労組(現在の大阪交通労働組合の前身)」が高野山に立てこもり、6日に渡ってストライキを行いました。
「高野山事件」「高野山闘争」「大阪市電争議」などと呼ばれるこの話に、今日は触れたいと思います。
経緯
1921年5月、大阪で初めてメーデーが行われました。
それに感化されて1923年3月16日、「西部交通労働同盟」の旗揚げが行われました。
当時の大阪市電は整備も一段落したことで安定的に利益が出るようになっており、収益の確保のターンに入ってました。
にも関わらず、従業員は低賃金・長時間拘束・不規則な勤務時間・残業前提のシフトを強いられており、勤続年数も短いという悪循環が続いていました。
当時の資料によると、関西の鉄道労働者の給金は工場労働者よりも低く、紡績女子労働者並みであったそうです。
1日も休まない勤務でなんとか生活できるといった具合。
労働時間も10時間勤務8時間乗務で、更に残業があって当たり前…という世界でした。
…どことなく、現代社会と似ている気もしますね
これら劣悪な労働条件を改善すべく、西部交通労働組合は
・8時間労働
・最低賃金制度の引き上げ
・ボーナスの増額
・日曜祝日の公休
・中休み制度全廃
・住宅補助の支給…などの60項目の要求
を当時の角局長へ提出しました。
現在では当然のように受け入れられているものばかりですが、「予算がない」と大阪市電気局はこれを全面的に拒否します。
これを持ち帰った労働組合側は、再び
・さきの嘆願書全部を再び要求する
・この問題で絶対に犠牲者を出さない
・梅田、築港、鶴町の各出張所長を排斥する
・翌日7月4日の12時を回答期限とする
という主張を提出します。
この時点では、労組側はあくまで平和的な交渉を行っていました。
ところが、一回目の主張を拒否した時点でブチギレた一部の労働組合員が、拠点であった天王寺車庫(現在のマルハン新世界店)へ入ってくる市電車両に全て「故障車」の札を掲出し始め、22時時点で半分しか電車が動かない事態に陥ってしまいました。
こうして1924年7月3日、西部交通労組はなし崩し的にストライキをスタートさせたのですが、労働組合本部員はこうした事態を想定しておらず、当時の中西組合長も「こうした状態に陥ったことは意外である」と動揺していたようです。
現在では、そもそも公務員のストライキは禁じられています
一方、大阪市電気局側も
・この労働組合に反発的だった別の労働組合員750名に協力を要請
・「運転手車掌を募集」の看板を設立
・「ストライキ中出勤した人には日給を倍支給」
と、この身勝手な行いを徹底的に弾圧する姿勢を見せます。
当時の関市長は「4日に回答する約束をしてたのに、それを待たず勝手にストライキをするのは身勝手過ぎ」とだいぶ怒り気味にこの事象を批判しています。
この時点で
・過激派となり勝手にストライキを開始した一部の労働組合員
・それを徹底的に抑え込もうとする大阪市電気局
・困惑してる労働組合本部
という構図が生まれていました。
高野山籠城
大阪市は、この混乱に対して警察官を動員。
西部交通労組は南区(現在の中央区南側)瓦屋町3番の材木店跡地に移転。ここで仮眠をとりはじめた7月4日の午前3時、警察が家宅侵入罪で組合の幹部員を逮捕し始めます。
7月4日は市電のわずか30%しか運行できず、当時の大阪市民には「米騒動と並ぶレベルの大混乱」と記憶付けられるなど、徐々に西部労働組合側の分が悪くなっていきます。
この事態を察知していた西部交通労働組合としては、2,000人もの人員が居る組合の強制解散だけは避けたいと考え始めます。
そこで出した案が「高野山籠城」だったのです。
さながらそれは、過去の歴史で幾人もの人が高野山へ逃げたことをなぞるようでした。
7月5日の午後から各部署の移動を開始。南海高野線と国鉄和歌山線(和歌山→橋本)に乗って、高野山・蓮華院を目指しました。
この当時はまだ高野山ケーブル(1934年開業)や極楽橋駅(1929年開業)はなく、橋本駅が高野山の入口でした。
大学生を急遽運転士に
電車が運行されなくなり大混乱の大阪市内では、ストライキで運転手がいなくなった大阪市電に、急遽軍人や大阪高商(市立大学生)や大阪工業高校生を緊急で雇って動員。
そのおかげで7月5日には平常の半分である241両の電車が運転可能となり、もはや西部交通労働組合員は「市民の公敵」「必要のない存在」になっていることに、組合員はショックを受けたそうです。
高野山へ逃げた組合員は徐々に生活が苦しくなったことや、奥さんや母親が夫を連れ戻しに高野山まで来たり泣きつかれたりして、徐々に脱落していきます。
ただ、「ハハキトク・チチキトク スグカエレ」の電報が打たのですが、既に父母がいない人にも乱発する適当ぶりだったそうです
結果は大敗北
加えて大阪市側は「首謀者171名を懲戒解雇、7月12日までに出勤しないものも解雇する」「復職者は西部交通労働組合から脱会すること」という通告を行いました。
大阪府議会では糾弾宣言がなされ、鉄道省も「ストライキに参加した者はブラックリストに載せ、今後一切鉄道会社に就職させない」とかなり強気な姿勢で批判する事態に。
市民からは「公敵」呼ばわりされ、鉄道省からはブラックリストに載せられ、大阪市・大阪府も絶対に許さない姿勢を崩さない…など、西部交通労働組合は完全に四面楚歌、孤立する状態となりました。
結局この事件は、高野山僧侶の調停で幕を下ろします。
西部交通労働組合側は
・解雇者の復職
・ストライキ中の賃金支給
を条件に調停を結ぶと発表しましたが、大阪市側は「将来に悪影響を残す」として断固受け入れず、先の通告に加えて
(・首謀者171名は懲戒解雇
・7月12日までに出勤しないものも解雇)・西部交通労組の解散
を要求しました。
西部交通労働組合側はこれを飲まざるを得ず、7月11日に高野山大師堂前広場にて西部交通労働組合の解散式を行いました。
いわば無条件降伏、完全な敗北として幕を引くことになったのです。
籠城者は11日夕方に南海汐見橋駅へ到着。13日から復職する形となりました。
現在
西部交通労働組合の後身となる大阪交通労働組合(大阪メトロの労働組合)では、1945年11月15日の再建記念日から10年ごとに、この高野山籠城を次代に受け継いでいくかのように、高野山・福智院にて記念集会を行っています。
【過去の集会】
50周年記念:1995年9月13~14日
60周年記念:2005年10月13日~14日(参加者129名)
70周年記念:2015年10月5~6日(参加者105名)
例年通りでいくと、次は2025年の10月に行われる感じでしょうか。
関連リンク
参考文献
武知京三「近代日本交通労働史研究」、日本経済評論社
大阪交通労働組合「大交五十年史」
大阪交通労働組合「大交六十年史」
大阪交通労働組合「激動この10年 大阪交通労働組合70年史」
大阪労働協会『月刊労働 (465)』「風霜の彼方に(なにわ大正社会運動挿話)(36) 高野山に籠城 大阪市電スト/ 荒木傅」、1987年11月
日本共産党大阪府委員会「時代をつないで 大阪の日本共産党物語 第3話 電車ストライキ」