近代の大阪市発展の礎を作ったのは、第6代大阪市長である池上四郎氏。天王寺公園に銅像が建てられています。
その後継として赴任したのが、当サイトで何度も取り上げている第7代大阪市長の、關一氏です。
池上市長は1920年(大正9年)2月に大阪市営地下鉄建設の調査へ着手させ、1925年(大正14年)に基本計画を発表。後継の關市長はそれを引き継いで建設を進め、御堂筋線梅田~心斎橋間の開業を果たしたのです。
その地下鉄建設にあたり、關市長を技術面でサポートした、名参謀「清水 熙(しみず ひろし)」建設部長をご存知でしょうか。
心斎橋駅にレリーフが埋め込まれている大阪地下鉄ファンとしては足向けられないこの偉大な方について、今日はご紹介したいと思います。
ひっそりと
このレリーフは、大阪地下鉄の最初の駅である、御堂筋線心斎橋駅南改札の隅の方にて設置されています。
右がホームへのエスカレーターですね。本当、目を凝らして探さないとわからないレベルでひっそりと飾られています。
ドン!!! こちらが、清水建設部長です。
当時のり問屋で流行ったとされるツーブロックスタイル。性格は実に豪放磊落だったと評されています。
駅のリニューアルまではラミネート加工の簡単な解説文が付けられていましたが、心斎橋駅リニューアル時、改めてしっかりとした金色の説明プレートが用意されました。
清水熙
しみず ひろし昭和八年の大阪市営地下鉄開業にあたり、
關一(せきはじめ)市長とともに、地下鉄建設の
陣頭指揮をとった大阪市電気局(交通局の前身)の
高速鉄道建設部長です。
地下鉄建設にあたっての基本方針として、
五十年先、百年先を考えた規模と最新の
技術・設備を採用するなど、斬新な発想を
持って建設を進めた功績を後世に伝えるため、
氏の退職後に当時の電気局有志がその偉業を
讃えて寄贈したものです。
地下鉄建設の大変さと鉄道マンの維持や団結力が
銘文末尾に刻まれており、ひしひしと伝わってきます。
生い立ち
清水建設部長は、明治10年3月1日に岐阜県岐阜市にて誕生。その後、京都市上京区折屋町上ル桝屋町に移住。
明治34年に東京帝国大学工学部を卒業後、一旦北海道炭礦鉄道へ入社します。その後帝国鉄道庁の技師として勤務した後、明治40年4月に大阪市電気局電気鉄道課へ入局、大正8年12月に電気鉄道部技師長になられます。
大正12年5月に大阪市電気局が発足しますが、その際に高速鉄道課長、技師長の両者を兼任されています。
昭和5年の大阪市営地下鉄着工時に建設部長へ就任。
「100年先を考える」という話はよく關市長のエピソードとして語られることが多いですが、実際にはこの清水建設部長が口うるさく言っていたのだそうです。
具体的には
・市営なので費用を惜しまずに最新技術・設備を採用すること
・若い技術者を思う存分働かせること
・部下を信頼してとやかく言わないこと
などをモットーとしていたとのこと。
豪放磊落な性格と相まり、大阪市営地下鉄建設の柱として、上司・部下共に信頼される存在だったようです。
引退まで
初の地下鉄である御堂筋線の開業を見届けた後、1935年(昭和10)年5月25日に依願退職。
この年は、地下鉄建設を邁進した關市長がチフスで亡くなられた年でもあります。急逝された關市長に、思うところがあったのかもしれません。
引退後もしばらくは電気局の技術顧問を務めましたが、1941年(昭和16年)1月25日にこの世を去られました。
逝去後には有志が青銅製のレリーフを作り、漢詩に造詣が深い「河野資基」第二建設事務所長の手によって、その周囲に揮毫がなされています。
君性清水名熙岐阜人也以都市工学人有其
名明治四十年奉職於大阪市遍興?都市計
量之枢機有復元夙?類園高速鐵道布設之
事?営不敢少休与昭和五年任電気局高速
鐵道建設部長い?五月始通地下電気軌道柊梅田心斎橋間竣功?可以??????
局長面修??人?淡富事篤密?則天去私
是以?事不成也十年?退?市顧問因?其
恩?者相諮命?工?君像欲永宙之?壁間
云?昭和十一年八月電気局同志敬誌
プレートは難解な漢字も多く読めないものも多いですが、大まかに現代語に訳すと
・清水熙という人物が岐阜出身であり、都市工学の専門家である。
・明治40年に大阪市の職に就き、都市計画や計測に尽力した。
・特に高速鉄道(地下鉄)の建設に力を注いだが、忙しく休む暇もなかった。
・昭和5年には電気局の高速鉄道建設部長となり、梅田と心斎橋の間の地下鉄工事が竣工した。
・最終的には昭和10年に退職し、市の顧問として奉仕した。
・昭和11年8月に電気局の同僚たちが彼に敬意を表して記念碑や文を残した
という内容のようです。
戦時中にあった金属回収令にも耐え、現代にまで引き継がれています。
家族関係
清水部長の奥さんである常子夫人は、「男爵いも」の由来となった川田男爵のご令嬢で、明治40年に結婚。
派手好きな方で、阪神深江駅にほど近い海岸に居宅を構えていましたが、室戸台風で流失。
住吉(兵庫県)に転居するも神戸大空襲で消失。再度蛍池に転居されています。
文献によると、二男二女をもうけられたとのこと。
長男:清水源太郎、二男:清水雅男、長女(氏名不明)、二女:清水好子
子息は息子さんが戦死、娘の好子氏がピアノ教師となり、晩年の奥さんを扶養されていたそうです。
清水部長の没後27年目にあたる、昭和43年に逝去されました。
年表
・明治10年(1877年)3月1日に岐阜県岐阜市にて誕生。
・その後、京都市上京区折屋町上ル桝屋町に移住。・明治34年(1901年)7月10日:24歳で東京帝国大学工科大学土木工学科卒業
・明治34年7月16日:北海道炭礦鉄道へ入社
・明治39年10月1日:鉄道作業局 帝国鉄道庁技師
・明治40年(1907年)4月26日:大阪市電気局電気鉄道課へ入社
・明治40年暮:30歳で川田男爵のご令嬢常子夫人と結婚。兵庫県深江に居宅を構える
・明治44年3月31日:京都市の道路構築部へ出向、工務課長
・明治45年(1912年)1月10日:京都市電気軌道事務所技師、工務課長
・大正2年6月11日:京都市水道事務所技師、工務課長
・大正3年3月18日:事務所の閉局により解職、同日大阪市へ復職。電気鉄道部技術課長
・大正8年12月:電気鉄道部技師長
・大正12年5月:大阪市電気局高速鉄道課長、技師長の両者を兼任
・大正14年(1925年)5月5日:48歳。大阪市電気局工務部長
・昭和5年:大阪市営地下鉄建設部長へ就任
・昭和10年(1935年)5月24日:58歳で依願退職、電気局技術顧問嘱託
・昭和16年(1941年)1月25日:63歳で逝去。
関連リンク
参考文献
- 『工業評論』9(12),工業評論社,1923-12
- 『大阪市交通局五十年史』,大阪市交通局,1953.
- 『諸家稜々志』,商工重宝社,大正4
- 館和夫 著『男爵薯の父川田竜吉』,男爵資料館,1986.2
- 『京都大学工学部土木工学教室六十年史』,京都大学工学部土木工学教室創立六十年記念事業会,1957
- 蘇我のイルカさんのポスト
- 閨閥学「清水家(清水凞・清水勝定の家系図)」