「大阪市電創業の地」を見てきました

「大阪市電創業の地」を見てきました

大阪メトロが出来る前の大阪市営地下鉄、いやもっともーっと前の「大阪市電」という、かつて大阪市が運営していた路面電車がありました。

地下鉄のご先祖様ともいえるこの電車の発祥は、西区の花園橋(九条新道交差点)から築港(大阪港)へ向かって走る電車でした。

その発祥の碑が九条新道にあると聞いて、実際に見てきました。

 

地味すぎる碑

九条新道交差点に到着。このあたりに発祥の碑があるはずなんですが……んん?どこ???

と探していたら…

ありましたいやちっさ!存在感無!!!

大阪市電創業の地」と誇らしく書かれたこの碑ですが、思いの外小さくてちょっと唖然としてしまいました…笑

大阪市のページを見ると、昔はもう少しだけ高さが積まれ、回りは樹木で覆われていたようです。

道路側には「平成元年九月 大阪市建立」と書かれており、南側には先程の「大阪市電創業の地」と刻まれています。

東側には以下のような説明文が記載されていました。

明治三十六年九月に改行した大阪市電の第一期線築港線?
西区九條町(花園橋西詰)から築港埠頭までの約五???
で このあたりに花園橋停留場があった

明治三十六年といえば、天王寺で「第五回内国勧業博覧会」が開催された年ですね。

当時の様子を振り返ってみましょう。

 

1903年の話

出典:大阪市電気局四十年史 運輸篇

当時の花園橋停留場の写真。

写真から具体的な位置関係は読み取れませんが、この時点でかなり道路の拡幅工事が終わっていることから、築港大道路(現在のみなと通)がこの時代で既に広かったのは確認できます。

九条新道交差点がこのように左カーブしていることを考えると、スーパー玉出の看板がある辺りが、市電右に写っている商店でしょうか。

 

2500万円もの大金をかけた世紀の大事業である「築港」の完成が近づいていたこともあり、

・築港の利用を促進すること
・「第五回内国勧業博覧会」に間に合わせること

を目的に急ピッチで整備されました。

残念ながら博覧会には間に合わなかったのですが、閉幕から2ヶ月後の1903年(明治36年)9月12日、大阪市交通事業の第一歩となる花園橋~築港間がスタートしたのでした。

 

市電の開業で、築港大道路の沿線は一気に開発が進んだそうです。大阪はいつの時代も博覧会に合わせて都市が発展する博覧会都市なのですねぇ…。

尚、開業5年後の明治41年には、早くも複線となっています。

 

開業時の様子

開業日は曇天で、午前8時から走行開始。旅客を満載し、19時までひたすら往復していたようです。

19時からは雷鳴がなり始めた為にサーキットブレーカーが切れ、2・3の信号灯が損傷したというエピソードが残されています。

この路線はテスト的意味合いが強く、収益は問題としていなかったものの、当初は半年で2,500円程度の赤字が出ていました。

しかし日露戦争が勃発したことで軍艦・商船の出入りが活発になり、築港線の利用者は飛躍的に増えたことから、翌年の明治37年度には早くも18,300円の収益を得ることになりました。

2,500円は現在の価値で概ね7,500万円、18,300円は5億4900万円程度になります。
すなわち開業初年(半年間)は7500万円の赤字、翌年度は5億4900万円の黒地ということになります。

儲かることがわかった市電はその後、大阪市内中に路線が張り巡らされていくことになります。

 

ダイヤ

花園橋・築港桟橋間を30分ごとに発車し、所要時間26分で走行していました。

途中市岡中学校前に設けられた退避線で両車が行き違いを行い、電停は10箇所が設けられていました。

この10電停については『市電 ー市民とともに65年ー』という文献に以下の記載があるそうです。

花園橋・九条二番道路・境川町・市岡中学校・磯路橋・夕凪橋・田中町・八幡屋堤防・三条通・築港桟橋

情報提供:のぶリン様

 

現存する市電車両

この当時に導入された車両は、まだ黎明期ということもあり形式名がなく、便宜的に「1号」「2号」と呼ばれます。

車体は汽車製造社(現在の川崎重工)の製造で、ドイツのAEG製 25馬力の電動機を使用したとあります。定員は42名、全長7315mm、幅2235mm、高さ3226mmだったそうです。

残念ながら開業当時の1号・2号電車は既に残っておらず、現在最も古い車両として現存しているのは、11型という電車です。

1912年6月に製造された車両で、元々は11型の285号車を名乗っていました。

1955年に当初の形へ復元され、どういう理由なのか30号車へ改番しています。

「5」と書かれたこちらもレトロに見えますが、1953年の大阪市電50周年を記念して復元されたレプリカ車両です。

既に京都をはじめ、名古屋・東京で路面電車が走っていたことから、大阪では何か特色のあるものを…と考えた上で生み出されたのが、この二階建て車両でした。

オリジナルの5号車は、日本における最初の二階建て車両として親しまれましたが、明治44年に僅か数年で廃車されてしまいました。

このレプリカ車両は、大正12年製の720号車を改造して制作したものです。

 

碑の場所

 

関連リンク

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参考文献

「大阪市電気局四十年史 運輸篇」大阪市電気局, 昭和18

鉄道史資料保存会「大阪市電 : 路面電車66年の記録」、大阪市電編集委員会 編、1980年9月

「大阪市電気局事業概要」大阪市電気局, 昭和12年10月




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