写真右手に見える「喜久屋食堂」、心斎橋きっての洋風レストランでした。『写真心斎橋』(1935刊)に店内の写真が残っており、地下鉄駅構内の看板もありました。有名なレストランだったはずですが、戦後に復活しなかった所を見ると空襲で焼けたか戦争で閉業したのでしょうか。資料は残っていません。 pic.twitter.com/2fzRnSCdcb
— パルプンテのぶ(米澤光司) (@parupunte_nobu) September 22, 2018
昭和10年ごろの大阪の写真を見ると、喜久屋食堂というフレーズがよく出てきます。
御堂筋線の心斎橋駅にも広告を出稿していたほど資本力があった食堂で、谷町四丁目にある大阪歴史博物館でも100形と共に再現されています。
しかしこれほどまでに有名ながら、現在の足取りが全くつかめないのです。
あれこれ探したのですが、結論から言うと手がかりが掴めなかったので、今後調べられる方のための参考記事として置いておきます。
現時点でわかっていること
本店は戎橋北詰、現在のヒロタビルに、北店は心斎橋筋の中程にあったそうです。
【店舗情報】
喜久屋食堂本店:大阪市南区
心斎橋喜久屋北店:大阪市南区心斎橋筋二丁目35番地
北の新地店:
神戸喜久屋:神戸市湊東区福原町106番屋敷
京都喜久屋:
本店は地上3階・地下1階の4フロアで、道頓堀の写真には必ず出てきます。
提供料理については、本店が天ぷらとフランス料理、北店は15銭均一で料金で大衆料理を提供していたとあります。
また、北新地・神戸(合名會社神戸喜久屋、昭和10年設立)・京都にも姉妹店があり、特に神戸については昭和40年ごろまで経営されていたようです。
【経営者関係】
店主:木村正男(明治37年2月生まれ。木村竹治郎の長男)
奥さんは木村タマ(明治41年4月生まれ、旧姓前島、前島清吉の二女)
息子は木村武夫(大正14年10月生まれ)、その他三人の娘がいる。
お母さんは木村シカ(明治17年8月生まれ、中澤芳次郎の三女)
経営者は木村竹次郎。本店の店主は木村正男氏、支配人杉浦清三郎。
木村正男の名前は、昭和17年の「日本紳士録 46版」「帝国商工録」などに比較的よくに登場します。
また、残っている写真から昭和20年までは建物があったようです。
昭和17年の書籍に記載がある(=昭和16年までは経営されている)ことから、この間に何かあったものとみられます。
おりしも戦中の食糧事情悪化で、レストランというものは経営できなくなっていたのでしょうか…。
叔父の木村竹次郎が経営していた道頓堀川河畔、戎橋の北詰にあった喜久屋食堂本店と、心斎橋筋の中程にあった喜久屋北店と、神戸喜久屋食堂の三店のうち、わたくしの両親が心斎橋筋の喜久屋北店を叔父から委託されて、店の管理と店員監督のようなことをやっておりました
出典:中沢良男『心外無法 : 仏教の心髄』,1983年、224p
また、宗教関係の方の自伝にも思いがけない形で喜久屋食堂についての記述がありました。
関連ポスト
中沢良男の妹と姪から、喜久屋は復活しなかったと聞いたことがある。
財産を整理して残ったミナミのビルの一室で、中沢良男は戦後しばらく喫茶店を営み、そこでチェロを自ら演奏していたとも。
後にそのビルは銀行に売却したとか。 https://t.co/LKTXw882mI— Kong Tong (@inside_out_out) February 5, 2025
関連リンク
参考文献
- 心斎橋新聞社『写真心斎橋』、昭和10年
- 中沢良男 『心外無法 : 仏教の心髄』、224p、1983年8月
- 大蔵省印刷局『官報 1935年06月04日』
- 人事興信『人事興信録 第11版(昭和12年) 上』、昭和12年
- 帝国商工録『昭和9年』
- 帝国商工録『昭和14年』