今から40年前の1980年11月26日。
この日まで天王寺~平野間を結んでいたのは、谷町線ではなく南海電車の路面電車「平野線」でした。
1914年に今池~平野が開業して以来75年近くを走り続けてきましたが、谷町線天王寺~八尾南間開業に伴って姿を消したのです。
厳密には、谷町線の開業日である11月27日だけは南海・谷町線が同時に運行されていました。
今日は谷町線の先輩ともいえる南海「平野線」について、詳しく書いていこうと思います。
運転区間
当時運行されていた平野線の運転区間は以下の通り。
比較用に谷町線の駅もあわせて掲載しました。
路面電車時代は今よりも停留場が多く、現在では見られない「股ヶ池」「苗代田」という駅も見られます。
平野線は阿倍野で上町線に乗り入れて天王寺駅前まで、今池から阪堺線に乗り入れて恵美須町まで、それぞれ直通運転を行っていました。
列車は各系統12分ごとの運行。つまり平野~阿倍野間は6分間隔とかなり高頻度での運行が行われていたようです。
幻の相互直通プラン
1968年。平野・駒川方面において、住宅地開発による人口増加が予想されていたことから、路面電車を高速鉄道(地下鉄)にする計画が持ち上がります。
南海電気鉄道 天王寺駅前ー平野
高速鉄道化
(注)上町線天王寺駅前・阿倍野間および平野線阿倍野・平野間の高速鉄道化により、[3]の路線(筆者注:谷町線守口~阿倍野筋1丁目間)と一体となって平野地区と都心部とを直結することが可能となる。出典:運輸省鉄道監督局『都市交通審議会大阪部会議事録(第十四回)』、昭和38年3月22日
南海電鉄の路線図風にするとこんな感じでしょうか。
当時は阿倍野まで谷町線を延伸させ、阿倍野からは南海電鉄が地下鉄規格の電車を新しく作って運行する構想でした。
しかしどういう理由からなのか、この区間を大阪市交通局に明け渡して南海は撤退することになります。
現在の平野駅
南海平野線の遺構は現在でもいくつか残されていますが、終点だった平野駅周辺では「旧南海電鉄平野線平野駅跡プロムナード」として、当時の遺構全体が公園として保存されています。
平野駅跡地。土地が狭い関係で変則的な縦列停車ホームとなっていました。
右側がホーム跡、左側が線路跡地です。
床面には線路を模した舗装が行われ、往時を偲んでいます。
鉄道信号を模したオブジェも。当然ながら現在は点灯しません。
公園真ん中ぐらいにある広場。壁面には平野線を中心に運行されていたモ205型が描かれています。
何か書かれたプレートがあります。読んでみましょう…
南海平野線は大正3年4月26日 今池・平野間の開業以来、大阪市東南部の重要な足として地域の人々に親しまれてきましたが、地下鉄谷町線天王寺・八尾南間の開通により昭和55年11月28日、66年の歴史をとじました。
モ205型電車は、開業当初の木造車を昭和10年代に銅製化したもので、通称<改造車>とよばれ平野線で活躍しました。
また、広場中央の照明塔屋根は八角形の欧風木造建築物として建築史上もユニークな平野駅駅舎のイメージをとり入れたものです。
広場にある建物は、平野駅にあった八角形の駅舎を模した休憩場所のようです。
平野駅に連なっていた商店街は、現在でも「平野南海」商店街として南海の名前を留め、ここが南海のエリアであったことを表しています。
平野線を走っていたモ205形のうち229号車については、遠く離れた大東市の大阪産業大学構内にて保存されています。
関連リンク
のりさんの鉄っちゃん想い出風景「南海平野線 昭和55年11月24日」
https://205-161-205.at.webry.info/200811/article_10.html