御堂筋線のあびこ駅。昭和30年代以来、30年にわたって御堂筋線南端部の終着地であり続けました。現在も一部の駅が折り返し運転を行うなど、運転拠点上重要な駅になっています。
高架相対式ホーム
さて、そんな我孫子駅ですが、構想当初は地上駅(橋上駅舎)で計画されていたことを御存知でしょうか。
現在のあびこ駅は相対式の地下駅。
当初は恒久的な終着駅になる予定(なかもず延伸の予定はこの頃なかった)だったにも関わらず、終着駅としては何故か不向きな相対式ホームです。
出典:「『大阪市高速鐡道設計要覧』 昭和3年5月 大阪市電氣局高速鐡道課 著」『鉄道史料 第74号』33p ― 1994.5発行 鉄道史資料保存会 著
こちらがその設計図。西中島南方駅のように相対式ホームで考えられていたようです。出口は4箇所。南北に2改札を作る予定であったようですね。
当時の新聞にはこうあります
今回竣成した地下鐵トンネル内を走り大國町、天王寺を經て阿部野までが地下軌道で阿部野からまた道路面へ浮かび上がつて西田邉を經て我孫子に至るわけだ
(中略)
現在着手中の第一期線南方我孫子間の全線運轉の開通機は昭和十二年の豫定で一部開通の喜びも束の間市電當局では次の工事に着手して大童の努力を續けなければならぬ
出典:大阪毎日新聞 ー 昭和8年5月20日号 14面
もし高架だったら
もしあびこ駅が高架だったらどんな風景だったでしょうか。当時のイラストを当てはめてみることにしました。
これは、昭和8年の大阪市電気局が描いていた未来の大阪の図。車以外は今と殆ど変わりがありません。
あびこ駅がもし高架で作られていたならば、こんな風になっていたのでしょうか。
西中島南方駅のように、中心にドカっと高架がのしかかり、橋桁はすすで汚れて暗くなり、街は分断されていたことでしょう。
構想当初、(コストの掛かる)都心部は地下、郊外は地上…という分け方で昭和15年ぐらいには南方~あびこの全通を目指していたようですが、
戦時に突入して防空壕としての役割を期待されたことで、図らずも地下へと変更。実際の開業は15年遅れの昭和30年代となったのでした。