【特集】「ムカつく中津行き」は何故あるのか?

【特集】「ムカつく中津行き」は何故あるのか?

御堂筋線の中津行き。今や全国レベルで最も有名な「一番来てほしくない行先」の代名詞ともいえる存在になってしまいました。

中津行きを疎んじるインターネットミームはニコニコ動画時代から既にあり、昨今では中川家がネタにするほどになっています。

 

先日にはネットニュースで「ムカつく行き先」の西日本代表として名を挙げられてしまうほどでした。(東は山手線の大崎行き)

 

 

 

しかし私は言いたい!!「中津行きが本当に必要な理由を!!!」

 

ということで、今日は中津行きが必要な本当の理由を解説したいと思います。

 

 

 

何故中津で止めるのか?

中津で止めるな!!」と言いたくなる気持ちはすごく、すごーくわかります。

 

千里中央へ帰れませんよね

江坂へ帰れませんよね

新幹線乗りたいのに新大阪行かないですもんね。よーくわかります。

 

そもそも、何故中津という中途半端な場所への行先があるのでしょうか。

 

 

理由①.梅田でガラガラ電車を用意できる

中津のお隣にある梅田駅は1日に44万人が利用する、大阪メトロで最も人が乗降する駅です。

一方で中津駅は1日4万人と梅田の1/10程度の駅です(とはいえ大阪メトロ全体で見ると24位と結構上位なのですが)

 

つまり中津で折り返す電車って、梅田でも必然的にガラガラ状態の電車がやって来ることになります。

 

 

実際に足を運んでみると、やはりガラッガラ。

梅田駅から地下鉄に乗る人はこのガラガラな車両の恩恵を受ける事ができ、着席の機会も増えてめちゃくちゃ嬉しいはずです。

 

 

つまり中津行きがある理由の一つは、「梅田からめちゃくちゃ乗ってくる乗客を運ぶため」なのです、

 

 

 

本来これが「梅田行き」として設定されれば、地下鉄のことを知らない人でもまだ納得のいくものだったのでしょう。

Yahoo知恵袋で見ていても「新大阪行きはまだわかります」という記述があることから「主要駅までの行先は納得がいくけど、中津みたいな中途半端なところで止めるのは納得できない」という論調が見られました。

 

大阪市営地下鉄御堂筋線の中津行きの存在理由を教えてください(笑)
梅田から千里中央方面へ向かうのですが、新大阪ならまだ分かります。
中津で止める意味がまったく理解できません(笑)

出典:https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10159490920

 

 

理由②.運転間隔を安価に短く出来る

もう一つは、運転間隔を短く出来ること。

中津~新大阪の区間を簡単な図で表してみます。

 

中津折返しの場合

新大阪まで行かず、電車を中津で折り返させた場合。

この場合は、2~3本の電車でこの区間の需要を賄えますね。

 

ところが新大阪まで行って折返した場合、必要な列車本数が増えて3~4本ないと回らなくなります。

 

用意できる電車の本数は有限ですし、それに乗務する運転士さん・車掌さんも増やす必要がある。

中津行きだと、その浮いた分を利用客の多い梅田~天王寺へと投入することが出来るのです。

 

 

 

中津行きの電車はどこへ?

さて、そんな中津行きの電車って「中津に到着するとその後はどこへ行ってるのか?

気になった方も多いのではないでしょうか。

 

 

答えは簡単で、中津の先にある留置線(簡単な車庫のようなところ)です。

 

ついさっき、中津行きの電車が出発していきました。ということで中津駅の一番西中島南方側に行ってみましょう…。

 

…いましたいました!

 

 

↑ここです。

 

 

左側に止まっている電車が中津行きだった電車、右側の線路が西中島南方・新大阪へ繋がる線路です。

西中島南方は地上へ出るので、上り勾配になってるのがおわかりになるかと思います。

 

 

 

中津行きとしてこの留置線に入った後、5~10分程度で天王寺行きとしてまたやってくるのです。

 

 

なぜ「梅田行き」ではないのか

先の項でも書きましたが、そもそも何故人がたくさん乗り降りする梅田でなく、中津行きなのでしょうか。

 

この理由について、当時の交通局のえらい人が書いた書籍にこのような記載があります。

当時の計画書を見ると一号線(筆者注:御堂筋線のこと)の運転計画を二系統とすることに定め、一つは江坂から終点の我孫子まで直通運転を行ない、一つは乗客密度の大きい中津ー天王寺間を折り返し運転することに決定されていた

出典:岩村 潔「大阪市地下鉄の歩み」、市政新聞社

 

つまり「中津から天王寺間の輸送量が多いから、中津に折り返し線を作るのが最適」という判断。

 

 

中津駅がまだなかった昭和18年に発行された文献(1を見てみると、今の天王寺駅と同じく中津駅の箇所には2面3線の配線図が記されています。

この時点で既に「中津で電車を折り返す設備」を用意しているのがわかります。

 

 

乗客数予想を外した?

…とはいうものの、梅田はともかく中津駅の輸送量はそこまで多くありません。

過去50年の乗降人員を振り返っても、西中島南方や新大阪と比べて明らかに中津駅が少ない。

 

 1966 1981 1995 2010 2019
 江坂-直通人員  未開業 163,405 172,335 110,939 121,010
 新大阪  29,579 76,467 111,312 122,734 152,249
 西中島南方  28,577 49,105  62,393  56,070  66,694
 中津  17,578 38,953  45,175  40,909  41,688
 梅田  435,820 485,589  468,610  415,015  442,297

 

先程挙げたように、運転区間は短いほうが必要な電車・運転士さんの数も少なく済むのだから、中津より手前の梅田駅で折り返し出来るようにするなど、極力短くするべきです。

 

 

梅田でなく中津だったのは、乗客予想を外したのか。それとも別の理由なのか。

 

しかし大阪市交通局の予想は恐ろしいほど緻密で、昭和2年時点で「将来の大阪には10両編成が必要だ」と計算し、2020年現在見事にそれを言い当てています。

 

つまり、予想を外したとは考えづらい。

 

 

出典:「大阪市高速鉄道停留場別乗客豫想圖(終日)」昭和22年

 

実際当時の乗客数予想資料を見ても、梅田62,000人・南方11,600人と比べて中津だけ7,200人と極端に利用客が少ないことがわかります。

つまり「中津の利用客は少ない」と最初からわかっていたことになります。

 

となると別の理由ですが…

 

 

地盤が悪いから?

梅田の地盤が悪いから中津にした」説。

梅田の地盤が悪いことは、梅田周辺の地盤が「梅田層」と名付けられていたり、工事中に大きな事故を起こしたり、大阪駅がズブズブ沈下していったという話からも明らかなのですが、

 

正直、中津も淀川に近いので地盤が悪いことには代わりありません。

 

工事をまとめた資料を見ても、このように書いていました。

この区間(筆者注:中津駅のこと)はことに地盤軟弱のため潜函工法により施工した(中略)

路上での大規模占用は不可能なため、路面覆工下で無気圧で函体を沈設させるオープンケーソン工法を採用した。

出典:大阪市交通局「大阪市地下鉄建設五十年史」

 

中津停留場付近の地盤はシルト層で甚だ悪く、従来のような鋼杭土留木矢板工法では危険である。

出典:岩村 潔「大阪市地下鉄の歩み」、市政新聞社

 

ほらね。

 

至るところで中津駅は地盤が悪い」「シルト層で地盤が悪いと散々に書かれています。

 

 

 

理由は谷町線だった

乗客数を外したわけでもなく、地盤が良かったからでもない……じゃあ何だ…?

とあれこれ考えてたんですが、

 

 

年表を見ていて答えが見つかりました。

 

 

答えは谷町線だったんです。

 

 

まずは時系列に年表をまとめたので、これを見てみて下さい。

 

【時系列】

1930年 谷町線を御堂筋線梅田駅横へ方面別ホームに乗入計画

1932年 事故が多く計画変更。御堂筋線は御堂筋線、谷町線は谷町線と同じトンネル内に並べる計画へ修正

1935年 中津駅計画を追加(当時は相対式ホームでの計画)

1942年 梅田駅北端(当時)から車両留置線用に110m程度を延長工事(ヨドバシカメラ北側付近)

1943年 中津駅で折り返し計画を構想(2面3線ホーム)

1946年以後 中津駅を1面2線ホームに計画変更

1958年 梅田駅北端延伸330m(済生会中津病院前付近)の工事着手

1960年 梅田駅北端延伸330mの工事完成、ポイントを設置

–ここまでは谷町線が御堂筋線の真横を走ることを前提に計画–

1961年 谷町線のルートを中崎町・東梅田ルートへ変更

1962年 梅田駅延伸部330mから先~新大阪間着工

1964年 中津駅開業

 

 

1961年まで、谷町線は御堂筋線の東側へ通すことを前提としていました。

つまり1961年までの御堂筋線の工事は、谷町線を通すための用地を開けておく必要があったんです。

 

 

地図でいうとこんな感じ。

 

1960年以前の谷町線計画は、中津手前まで御堂筋線と一緒に並走→阪急の高架下あたりで右折→天神橋筋六丁目を目指すというルートです。

 

計画当時の文献にもこうあります。

東成区森小路南端~善源寺町野江線~北区天神橋筋6丁目新京阪電車終点南側~阪神電鉄北大阪線~国有鉄道東海道線大阪駅~都市計画路線北野線~北区扇橋南詰~東区天神橋南詰~都市計画路線松屋町筋~国有鉄道関西線天王寺駅南側

天六から阪神電鉄北大阪線の下を通して大阪駅まで繋ぐ…とあり、まさにこのルート通り。

 

 

 

こうなると、梅田折返し線を作ろうとしてもスペースに殆ど余裕がありません。

 

 

 

済生会中津病院前までが先行

 

とはいうものの、中津駅の開業は谷町線の計画が変更されたあとの1964年

「谷町線作る前だし、計画変更すれば折返し線を作れたのでは?」とも思いました。

 

 

 

が、年表に書いた「梅田駅北330m延伸工事」というのが効いていたんです。

 

 

出典:大阪市交通局「高速電気軌道第1号線 芝田町中津本通2丁目間 中津停留場及び地下線路(1工区)書類綴(その1)」に筆者が追記

この図は中津への着工時に描かれた図面ですが、「第1工区」の部分を見ると既に完成済みであるトンネルが確認できます。

 

この工事は、当時梅田で折返していた御堂筋線の運用をスムーズにするために早急に必要と判断され、中津駅工事前の1958年に着工されています。

そう、1961年の谷町線計画変更前なんです。

 

もうすぐ中津の工事も始まろうという前に何故先行的に330mだけを作ったのかというと、当時の御堂筋線の運行は相当に逼迫していたとありました。

当時営業線の北の終端であった梅田停留場は、停留場南の交差渡り線のみで運転操作を行っていたので、この渡り線が故障すると直ちに列車運行停止という非常に危険な状態にあった。そこで運転時隔の短縮と安全な運行管理という面から、どうしても停留場北側に交差渡り線を設ける必要があった。
これらの理由から、梅田停留場北側を330m延伸して交差渡り線を設置することにした。

出典:大阪市交通局「大阪市地下鉄建設五十年史」

 

 

まとめると、こうなります。

 

①元々、谷町線は御堂筋線梅田駅のすぐ横を走らせる計画だった

②車両留置用の110m区間が1942年に完成
(谷町線を入れるつもりで建設)

③1958年、折返し用のトンネル330m(済生会中津病院前まで)を着工
(谷町線を入れるつもりで建設)

④1960年、折返し用のトンネル330m(済生会中津病院前まで)が完成
(谷町線を入れるつもりで建設)

⑤1961年、谷町線のルートが現行の東梅田駅経由に変更となる

⑥1964年、済生会中津病院前付近~中津駅開業
(谷町線は入れないつもりで建設)

 

 

トンネルの幅(建築限界)はギリギリ

出典:大阪市交通局『大阪市地下鉄建設五十年史』

 

地上を走る国道176号線の幅員は27m程度、地下鉄のトンネルは複線で10m程度。

御堂筋線本線(幅10m)+折り返し線(幅5m程度)+谷町線本線(幅10m)」でトンネルの合計幅は25mと、一見ギリギリ入りそうにも見えます。

しかし、中津駅はこれより小さい20m程度の幅員・2面3線で建設予定であったにも関わらず1面2線へ縮小された理由に「道路幅員が25mで狭く、作れなかった…」とあることから、トンネル幅と道路幅とはある程度の余裕を見る必要があるものと思われます。

 

 

 

【時系列】

1930年 梅田駅工事着手、当時は谷町線を対面で乗り入れる計画

1932年頃 谷町線対面乗り入れ計画を中止

1932年 中津高架橋完成

1933年 梅田仮停留場開業

1935年 梅田本駅完成
駅設置計画に中津駅を追加(当時は梅田・南方のみ)

1942年 梅田駅北端から車両留置線用に110m程度を延長工事(ヨドバシカメラ付近)

1943年 中津駅で折り返し計画を構想(2面3線ホーム)

1946年以後 中津駅を1面2線ホームに計画変更

1958年 梅田駅北端延伸330m(済生会中津病院前付近)の工事着手

1960年 梅田駅北端延伸330mの工事完成、ポイントを設置

1961年 谷町線のルートを中崎町・東梅田ルートへ変更

1964年 中津駅開業

 

 

 

実は数を減らしている中津行き

現在運行されている日中の新大阪行きは、花博があった1990年に設定が始まりました。それが好評だったので新大阪行きの運行が継続されるようになります。

つまり、御堂筋線短区間運転の基本は中津行きだったんです。

 

民営化前後から「ダイヤは商品」の考えの下、ダイヤ改正を頻繁にするようになり中津行きやあびこ行きは減らされてきました。

 

具体的にどれぐらい中津行きは減ったのでしょうか。ここでは梅田駅を基準に解説します。

1995年のダイヤ改正では中津行きが「朝20本、夕16-20時 48本 21-23 16、夜間14本」という中川家もびっくりのダイヤ。

最終の新大阪行きはなんと16時15分までで、そこからは全て中津行きでした。

 

…いかに中津行きが先に挙げた「列車本数の節約」や「梅田から乗る乗客の便宜を図るため」だとしても、一律で新大阪行きがゼロになるのはちょっとひどいですね。これは中川家も落胆しますわ…

 

現在の2020年改正ダイヤでは、中津行きが「朝13本、夕15本、深夜3本」と特に夜間帯において殆どが新大阪行きとなっています。

 

一方休日ダイヤでは、殆ど中津行きが設定されておらず、深夜に3本だけと見つけるのが難しいぐらいのレア行先となっています。

 

 

中津には何があるの?

最後に、中津駅にはいったい何があるのかご存知でしょうか。

近年「梅田」エリアの拡大に伴って梅田と連坦(街が繋がっている様子)しており、2010年後半からタワーマンションが林立する都心部らしい風景へと様変わりしています。

近隣の施設名にも「梅田」がよく冠されています。

 

タワマンは地下鉄直結。梅田にも近くアクセス性抜群で暮らしやすいですね~。

 

また、中津駅自体も抜本的なグランドリニューアルを果たしました。

開業から50年が経ち草が生えているほどボロボロの駅だったのですが、民営化で資材調達が自由になったことで、3年をかけて隅々までフルリノベーション!

大阪都心部生活を楽しめるような、そんな駅へと変貌しています。

 

 

まとめ

長々と「中津行きが何故あるのか」を様々な角度から書いてきましたが、いかがでしたでしょうか。

 

中津行きにイラッとする気持ちもわかりますが、

まぁ梅田でガラガラ電車に乗れるしな

梅田の為だし仕方ないな

「梅田場所ないしな」

1995年は新大阪行きは16時までだったしな

などと、色々思い出してくださると幸いです(笑)

 

 

…文の里行き?あれは滅さr

 

 

参考文献

*1 のりものニュース『あと少しなのになぜそこが終点?「ムカつく電車の行き先」はどこか

*2 「大阪市高速鉄道建設沿革誌 概要」大阪市電気局 高速鉄道部、昭和18年2月

なにわの地下鉄「路線紹介>谷町線

 

 

 




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