【特集】5大私鉄バスが乗入していた、伝説の「内本町バスセンター」を追う

【特集】5大私鉄バスが乗入していた、伝説の「内本町バスセンター」を追う
出典:「バスセンター使用量算定資料」

かつて存在した「内本町バスセンター」というバスターミナルをご存知でしょうか。

京阪・南海・阪神・阪急・近鉄の五大私鉄バスが、かつてここに乗り入れていたんです。

大阪市の交通行政で結構重要な位置を占めた施設だったはずなのに、ネットはおろか、書籍でも殆ど史料が見つかりません。

 

建物の写真も出てこないですし、存在が伝説となりつつあります(大袈裟)

そんな内本町バスセンターについて、中津行きの資料を漁っているついでに出てきた資料から詳しく切り込んでみました。

 

場所はどこ?

当時の地図を見ると、内本町バスセンターの場所は鎗屋町2丁目と内本町2丁目、内本町橋詰町の3エリアにかかる部分となっています。

所在地:大阪市東区内本町2丁目
敷地:650坪(2113.4㎡)
建設費:89,000,000円
同時停車可能台数:15台

 

現在の様子。のぞみ信用組合本社ビルの他、ずらっとビルが並んでいますが、この界隈全てをエリアにした巨大なバスセンターであったようです。

 

かつてはこの手前の道路に大阪市電18・19系統(野田阪神~玉造、緑橋)が走っていましたが、1964年に廃止となり、鉄道でのアクセスは谷町線谷町四丁目駅から徒歩15分と末期は不便な立地でした。

また、これ以外にサブのターミナルとして、御堂筋側に「本町バスセンター」もあったようです。

所在地:大阪市東区本町四丁目28-1-3
敷地:313.8坪

 

 

「青バス」の苦い思い出

当時「市内交通一元化主義(モンロー主義)」を採っていた大阪市は、市内への他社線交通乗り入れを全面的に拒否バスも例外ではありませんでした。

 

市内交通一元化主義とは

市民の交通は、市が責任を持って運営するべき」という考え方。アメリカのモンロー大統領が提唱した「お互いに関わらない」という考え方に似ていることから「モンロー主義」とも言われます。

現在はやや否定的に使われる言葉ですが、この考えをもとに地下鉄が整備されたからこそ割増運賃を払わず大阪市内を縦横無尽に移動でき、大阪市が発展できている功績があります。

 

 

 

先程あげた「市内交通一元化主義」の他にも、戦前の大阪市は「青バス(大阪乗合自動車)」と呼ばれた民間バスの開業を許した結果、血みどろともいえる戦いを繰り広げた苦い経験もあり、断固として大阪市内へのバス乗り入れを認めませんでした。

結果的に青バスは1940年に大阪市バスへ吸収合併され、現在の大阪市バス→大阪シティバスの源流の1つとなっています。

 

ちなみに、バス事業者としてのスタートは1927年の大阪市バス(阿倍野橋~平野間)よりも3年早い1924年(梅田~四ツ橋~阿倍野橋)からで、大阪市のバスのパイオニアとしてはこちらになります。

 

 

大阪市へ行きたいっ!

戦後、私鉄系バス各社は、大阪市内への乗り入れを要望します。先程の青バスの件もあって大阪市側は勿論拒否。

しかし大阪市域が広がることによって、従来私鉄バスのエリアだった場所(豊中や住道など)に大阪市バスを運行することになり、運行エリアの協定に矛盾が生じたことから、その代償として1948年に第一次乗入協定が結ばれます。

この協定でまず、自社線の鉄道ターミナル駅についてはバス停設置を認可。

続く第二次乗入協定において、当時の陸運局長の案である「バスセンター構想」が1951年(昭和26年)8月に提示されました。

・長距離バス乗客の連絡の便を図るため、市内の適当な位置にバスセンターを設置する

・バスセンターに乗入を認むべき長距離バスの範囲については、郊外バスの現状をも考慮して定めるものとする

・バスセンターへの乗入については左の方針によるものとする。

(イ)バスセンターへの市内経路は、道路状況並びに旅客の利便を勘業し協議するものとする
(ロ)市内乗入区間は無停車を原則とする
(ハ)将来状況に応じ市が郊外バス路線に乗入を希望するときは会社側は協議に応ずるものとする

出典:大阪市『バスセンターの問題について』昭和27年4月1日

 

この考え方をもとに、内本町バスセンターが作られることになりました。

 

乗り入れ路線

構想時の資料を見ると、各社の乗り入れ計画は次の通り。

近鉄バス:石切(29便)、奈良(2便)、王寺(1便)、国分(23便)
南海バス:和歌山(3便)、泉佐野(13便)、草部(13便)
阪神電鉄バス:神戸(23便)、宝塚(11便)
阪急バス:京都(19便)、島本(10便)、池田(30便)、宝塚(1便)、妙見山(1便)
京阪バス:京都(28便)
白浜急行バス:白浜温泉(2便)

大阪近傍へのベッドタウン輸送バスの他、京都や神戸などの都市間バス、更には白浜まで行くような高速バスっぽい趣のバスまで非常に多様なバスが乗入れました。

乗り入れるバスについては、大阪市内においてバスセンター行きは降車のみ、バスセンター始発は乗車のみとなっていました。

例えば京阪バスなら、京阪電車のある天満橋駅だけはバス停が設置できたようです。この次のバス停は森小路八丁目とかなり先にありました。

 

 

主要な乗り入れ経路

近鉄バス

内本町バスセンター~東野田六丁目~蒲生町三丁目~蒲生町四丁目…中垣内・浜南口方面

阿倍野橋~平野元町~平野京町三丁目~…奈良・国分・王寺方面

上本町六丁目~鶴橋~今里~高井田~…石切

南海バス

内本町バスセンター~難波~大国町~千本通~住吉公園~住之江…泉佐野・泉大津方面

阪神電鉄バス

内本町バスセンター~梅田新道~桜橋~出入橋~福島西通~野田阪神~…神戸・宝塚方面

阪急バス

内本町バスセンター~梅田~北野~中津~十三…加島・豊中方面

内本町バスセンター~天六~長柄橋南詰~柴島町~菅原町~上新庄~…茨木方面

京阪バス

内本町バスセンター~天満橋~森小路八丁目~今市~土居~…大日・仁和寺・枚方方面

 

 

終焉

こうして作られた内本町バスセンターでしたが、「内本町」という現代から見てもどこやねんと突っ込みたくなるような立地に作られたこともあり、千里万博が開催された1970年にその役目を早々に終えました。

この内本町は谷町四丁目駅から徒歩15分程度の距離にあって地下鉄からのアクセスも悪く、また「内本町2丁目電停」で連絡していた大阪市電も1964年に廃止されてしまい、乗り継ぐ他の交通手段がありませんでした。

更に、先述したように大阪市内では乗車が禁止されていたことから、その不便さもあったようです。

 

あれだけ拒否していた民間バスの大阪市内乗入れですが、現在では東大阪市に本社を置く「大阪バス」が御堂筋を堂々と走行しているなど、時代に合わせて変化も見られるようになりました。

もっとも、2011年に就任した橋下大阪市長は「市内交通一元化主義」の完全撤廃を行いましたが、現在でも大手私鉄系のバスは大阪市内へ参入しておらず、むしろ阪急バスの加島線が路線撤廃を行うなど、民営バスの大阪市内参入は一部の事例に留まっています。

 

 

参考文献

大阪市『内本町バスセンター計画と使用量』、昭和27年

大阪市『バスセンターの概要』、昭和30年5月11日以降

大阪市『内本町バスセンター現況報告書』、年度不明

大阪市交研究会『旧大阪バス(大阪乗合自動車)沿革』、2020年12月16日閲覧)

三木 理史『戦間期大阪市の都市膨張対応と交通調整』、2002年(奈良大学文学部地理学科教授)

 




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