御堂筋線は最初あびこまでの建設を取りやめ、西田辺までに短縮する意向だったそうで
ところが住吉区選出の議員6人が与党を抜けて強固に反対したことや、関一市長は都市計画に則りあくまで我孫子延伸を支持したことから、最終的な採決で賛成55,反対26で我孫子延伸案が通過したとあります
— Osaka-Subway.com/鉄道プレス (@OsakaSubwaycom) June 10, 2023
大阪のメイン路線である御堂筋線。
この地下鉄が計画されたのは大正15年にまで遡るのですが、この時から「北は江坂まで・南は我孫子まで」という構想が一貫して維持されており、今日でも全く変動がなく(むしろもっと延伸して)運営されています。
ところが黎明期である昭和一桁年期に、「我孫子への延伸を取りやめ、西田辺までにするべきだ」という意見があり、実際にそうなりかけたことがあるのだそうです。
詳しく見ていきましょう。
稲や桑を運ぶのか
時は昭和3年5月9日。
この日の大阪市会では、建設が決まった地下鉄の工事設計と予算についての議論が行われていました。
その中で、我孫子延伸について「我孫子よりもまず収益が上がる路線(四つ橋線玉出方面)から建設すべき」という意見が出てきます。
委員会が開かれ、実際に実地への調査も行われました。
実地へ行った議員からは
「こんなところに一哩(マイル)700万円もかかる高速鉄道をつけて稲や桑を運ぶのか」
という意見もありました。
当時のマップを見てみると…、なるほどこれはなかなか強烈…笑
ご覧のように、当時のあびこ駅周辺にはなんにもない田畑だらけの村であったことがよくわかりますね。
西田辺駅周辺でも、そこそこの田舎ぶりです。
まだ我孫子と比べると民家は多いですが、当時の情勢を生で見た人が反対に回るのもうなずけますね…。
一方、「収益の上がる路線」として検討されていたのが四つ橋線大国町~玉出間。
上記と同じ昭和3年のマップですが、これを見るとあびこよりは人が居住している様子が伺えます。
当時の玉出は既に南海電鉄や阪堺電気軌道が開業していたこともあり、既にかなりの人口が居ました。
このこともあって、
・1号線(御堂筋線)は西田辺までで打ち切り
・3号線(四つ橋線)を玉出まで伸ばすべき
という意見が強まっていました。
住吉区議員が反発
ところが、これに猛反対したのが当時6名居た住吉区議員です。
【反対に回った住吉区議員】
吉村 音次郎
橘 尚蔵
中村 寅吉
森下 比三郎
成山 庄次郎
中野 甚治
西田辺までは阿倍野区ですが、今回打ち切られそうになっている長居と我孫子は住吉区。
地元から選ばれた彼らが、この案に反対するのも当然ですよね。
彼らは与党でしたが、猛反対の意を表明するために敢えて与党を離脱。気骨ある行動です。
それでも委員会の報告は覆らず
「即チ第一号線中南方西田辺二至ル間ハ現ニ人口過密デアリマシテ高速度鉄道トシテノ価値ヲ直ニ発揮スルモノト認メタノデアリマス、西田辺我孫子間ハ人口ノ増加ハナシツツアリマシテ将来ハ高速度ヲ必要トスル所デアリマスガ今直チニ敷設シナケレバナラヌ程重要ニ迫ツテ居ルトハ認メナイト云フ意見ガ多数アツタノデアリマス、ソレ故ニオ手許ニ配布致シマシタ議案第百六十二号記載ノ通リ原案ニハ南方我孫子間トナツテ居リマシタノヲ南方西田辺間ト修正ヲ致シマシタ」
【現代語訳】
御堂筋線の南方~西田辺までは人口が多く、地下鉄としての価値をただちに発揮すると認めます。しかし西田辺~あびこ間は人口の増加はあり、たしかに地下鉄を将来必要とするでしょうが、今すぐに建設しなければならないというほどでもない、という意見が多数ありました。
それ故に、手元へ配布しました議案第162号に記載した通り、原案で南方~あびことなっているのを、南方~西田辺間に修正しました。
と、あくまで我孫子延伸は後回しにするという点は変わりませんでした。
最終的には…
しかし、百年後の大阪が見えていた関市長としては、是が非でも御堂筋線は我孫子まで延伸しなければならない。
何故なら高速鉄道(地下鉄)は
・郊外と都心を結ぶ理想の輸送機関であり
・未来の我孫子は郊外の入口となり、必ず将来的に堺などへ延伸することが見込まれ
・過密な人口を郊外へ振り分け、新しい住宅地を作り出して大阪中を満遍なく発展させること
が、大阪の発展に必須であるという信念があったのです。
いわば反対派議員らは、今このときの大阪しか見ていませんでした。
9月1日。辞職も視野に入れて臨んだ大阪市会では、浪速区から選出された舳松倉太郎議員により、
・四つ橋線を早く建設する
・南方より北の建設をすみやかに実現する
・受益者負担金については公平な措置を行い、軽減させる
・西田辺以南は復活(我孫子まで建設)させる
の動議を提出しました。
この採決が行なわれた結果、賛成55・反対26で議案が通過。
無事に一期線として、御堂筋線を我孫子まで建設することになったのでした。
ちなみに比較対象とされた四つ橋線も戦時の要請もあって早く建設することを可決され、昭和17年に大国町~花園町間が開業しています。
玉出までの延伸は昭和31年(1956年)と、結果的に我孫子延伸よりも先に実現したのでした。
実際には
この後決議通りに建設が進んでいくのですが、実際に我孫子まで建設されたのはここから30年近くが過ぎた、昭和35年(1960年)のことでした。
・1925年…高速鉄道計画
・1928年…我孫子延伸反対案が提出。審議の上、当初計画通り我孫子までに落ち着く(今回の記事)
・1933年…梅田仮停留場~心斎橋間開業
・1935年…心斎橋~難波間開業
・1938年…難波~天王寺間開業、天王寺~西田辺間着工
・1942年…(四つ橋線)花園町~大国町間開業
・1943年…戦時による資材不足と召集による人手不足から工事中断
・1950年…工事再開
・1951年…天王寺~昭和町間開業。但し資金不足から駅以外は天井を節約して施工
・1952年…昭和町~西田辺間開業。ここでも天井は省略される
・1958年…開いていた天井に蓋をして地下化
・1960年…西田辺~我孫子間開業。
また当初は天王寺~我孫子間を高架線で建設するとしていましたが、戦争の激化により防空壕としての役割を期待されたことから全線を地下に変更。
この影響や戦時中の資材難もあり、かなり後年である1960年にずれ込んだのです。
それでも「一期線」として、無事に開業できたあびこ駅。
もしこの決議が反対多数だったなら、開業は1980年頃にまで遅れていたのかもしれません。
関連リンク
参考文献
- 藤井秀登「関一の交通論」、1999年
- 大阪市「マップナビおおさか」