出典:平松邦夫公式サイト「翔の会」より <https://khiramatsu.com/>
なお、平成22年の9月交通水道委員会の質疑の中で、当時の交通局長が今後の展開という視点で自民党川嶋市議の質問に「駅ナカ」展開について簡単に触れています。この件のお答えをするのに大阪市会の議事録を検索しました。
— 平松邦夫 (@hiramatsu_osaka) September 23, 2016
大阪市営地下鉄のエキナカ事業として「ekimo」が難波にオープンしていますが、これを計画したのは平松元大阪市長です。
実は、この地への地下商店街の計画は、実は80年も前に既に立案されたものでした。
既に建築工事までが終わっていたのですが、当時の価値観から見ると地下鉄の駅の商店を入れるという考えは先進的過ぎて受け入れられず、撤回された経緯があるのです。
当時を探る
時は昭和モダンから戦時へと時を移しつつあった昭和13年。
書籍「マルコに恋して」にも記載していますが、難波駅の建設計画では、これまでの淀屋橋駅・心斎橋駅のような大きく広々とした駅構造はやめ、駅全てにわたって中階を設けた構造になりました。この中階部分に、先進的な地下商店街を作ろうと計画していたのだそうです。
建設当時の新聞にも、このように記載があります。
「難波停留場は南海難波驛と聯絡(連絡)、同停留場の中二階には酒落たる賣店(売店)が出現することゝなつてゐる」
―『大阪毎日新聞』(昭和8年5月21日,13面)
しかしながら地下商店街の為にトンネルを建設したまでは良かったものの、その話がわかると戎橋筋商店街を筆頭とする近隣商店は猛反対。
「商売あがったりだ!!」「換気が不十分で不衛生だ!」などなど、かなりのいちゃもんをつけて撤回させることとなりました。
時は流れて2010年
80年後の2010年、当時の平松市長がこう指示を出したのだそうです。
累積赤字の解消が具体的に見えた平成22年には交通局の担当者と駅ナカ事業への取り組みについて、実際に図面などを見ながらどの駅に展開できるスペースがあるのかなど検討し推進を指示した記憶があります
当時は先進的過ぎて全く受け入れられなかった地下商店街。この地が再び「商店」として機能するまで、80年もの歳月がかかったのでした。
平松元市長の手によって、ようやくその計画を日の目を見る事ができたのですね。当時の関係者は、これを見て何を思うのでしょうか。
ちなみに
昭和18年の話は知りませんでした。駅ナカ事業に関しては、どの駅のどの空間が「安全に」利用できるか、様々な図面を見ながらの検討や、乗降客の数などテナントに魅力のある空間になるのかを担当と話し合いましたね。
— 平松邦夫 (@hiramatsu_osaka) September 23, 2016
当時のことは平松元市長は知らず、たまたまの偶然だったようです。笑
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Photo,Writer :Series207 2016/12/25