#ごちそうさん でも放映…大阪大空襲の中、「命運んだ大阪市営地下鉄」

#ごちそうさん でも放映…大阪大空襲の中、「命運んだ大阪市営地下鉄」

皆さんは、1945年3月13日・14日の「大阪大空襲」の際、地下鉄御堂筋線が逃げ惑う大阪市民の足として機能したことをご存知でしょうか。

猛火に包まれ逃げる手段が失われていた難波・心斎橋エリアから、(禁止されていたのに)梅田方面へと列車を動かして避難させたというのです。

 

 

NHK朝ドラマ「ごちそうさん」の第128回(2014年3月4日放映)で、め以子が御堂筋線の心斎橋駅に避難して、更に夜間で動いていないはずの電車(100型)に乗って、空襲から逃れるというエピソードがあります。

 

駅員が防空法を理由に避難を拒む中、それでも”め以子”達が地下鉄駅に避難したのは、大阪市職員として地下鉄建設に尽力した、夫の悠太郎から渡された手紙に「地下鉄に逃げれば安全だ」と書かれていたのがきっかけでしたね。

ちなみにこのシーンは、2014年1月18日に緑木検車場(北加賀屋駅にある地下鉄の車庫)にて、明け方までかかって作られたのだそうです

 

 

当時の話を振り返る

戦前使用されていた淀屋橋出張所(大阪市地下鉄の歩み,岩村潔 著 より)

 

以前は証言や史料も少なく真偽が曖昧であったようですが、現在はかなりの証言が揃ってきており、ほぼ事実と見て間違いなさそうです。

1997年、「朝日新聞」に京都大学名誉教授の村松繁(免疫学。当時64歳)が空襲下での自らの体験を投書、掲載(3月11日付「声」欄)されたことがきっかけだった。

投書によれば、市街を周囲から中心へと渦巻き状に爆撃が続けられるなかで、退路を断たれた被災者の多くは中心部に逃げざるをえず、村松が心斎橋にたどり着いたときには周囲は完全に火の海であったという。そのとき地下鉄のシャッターが開き、村松たち被災者は駅員から「早く入りなさい」とホームに誘導され、ほどなくしてホームに入ってきた電車に乗り無事に梅田へ避難することができたのだった。村松は投書を、《あの大惨事に際して、当時の地下鉄関係者の冷静で適切な措置には、今もって感謝と敬服の念でいっぱいである》と結んでいる。

出典:http://www.excite.co.jp/News/reviewmov/20140307/E1394123050482.html

逃げ込んだ駅には、ドラマにもあった心斎橋の他、大国町駅もあったそうです。

資料を見ると、3~4時に特別な臨時列車が出て、梅田や天王寺へと乗客を運んだ…とあります

 

 

特別な臨時列車とは

その特別な臨時列車とは、お送り電車のことなのだそうです。

現在も設定されているのですが、車庫や駅に夜間留め置いている車両を使って、乗務員の方を始発より更に前の回送列車で各駅に送り出す電車のことを指します。

この図は昭和8年当時のダイヤを図表にしたものですが、①と②の列車が6時前に淀屋橋駅から出発して、それぞれ梅田と心斎橋へ向かっているのがわかります。

この後両駅を6時頃発の一番列車として、始発列車の運行を開始するのです。

救援電車は、始発前に職員輸送のために走行させる「お送り電車」を現場の機転で避難者のために運行したものとみられる。始発電車が救援電車になった可能性もあり、救援電車が何本走ったかは定かではない。職員OBの聞き取りによって変電所は被害を免れ、空襲後も電気を送り続けたことが判明している。

出典:http://www.freeml.com/bl/6381040/105179/

 

 

禁じられていた地下鉄への避難。その理由は…

戦時中は、なんと地下鉄での避難は禁止だったそうです。

今の価値観からするとありえない!と憤慨するかもしれませんが、花園町駅や動物園前駅などの一部地下鉄駅には地下までが浅く作られたところも確かにあり、もし1トン爆弾が直撃すれば最悪壁を突き抜けてしまう可能性もありました。

動物園前駅は、戦時中ほぼ無傷だった大阪市営地下鉄の唯一の例外事項として、地下の屋根が吹っ飛んだ…という話も残っています。

じつは戦時下の日本では、空襲時に地下鉄に避難することは禁じられていたのだ。政府発行の『時局防空必携』昭和18(1943)年8月改訂にも「地下鉄道内への避難は許さぬ」との条項があった。その理由としては、いくら地下鉄のトンネルが頑丈でも重たい爆弾が直撃すればひとたまりもないこと、また避難民が殺到して二次災害が発生することへの懸念があげられる

出典:http://www.excite.co.jp/News/reviewmov/20140307/E1394123050482.html

 

日本への空襲は「焼夷弾」で、木造家屋を多く延焼させるために用いられたものでした。

これがもし、ドイツのドレスデン爆撃のように爆弾と焼夷弾の併用であったなら…御堂筋線の駅は耐え切れずに壊れていたかもしれないそうです。Facebookで次のようにコメントを頂きました。

 

日本の主要都市の爆撃に米軍が使用したのは、「爆弾」ではなくて「焼夷弾」(弾頭は火薬ではなくガソリンが入っていた。地上で炸裂すると、広範囲に燃え広がった。)だった。
土と木と紙で出来た日本の家屋を破壊するには、爆薬は不要でただ焼き払えばいい、という判断だったようですが、これが不幸中の幸いで、比較的浅い地下鉄である御堂筋線は、ドイツの各都市のように「爆薬」で攻撃されていたら、ひとたまりもなかったのではないでしょうか。

出典:https://www.facebook.com/osakasubway/posts/1220122764707818?comment_id=1220314238022004&comment_tracking=%7B%22tn%22%3A%22R0%22%7D

 

追記:この本を読みました

「いのち運んだナゾの地下鉄」という本があり、この史実について理解を深めるのに最適な書籍です。

1997年7月に新聞社が行った『空襲下「救援電車」は走った』という記事を基に、児童文学作家である野田道子氏が描かれた絵本です。

この書籍には当時の情景について新聞社に寄せられた投書を基に具体的な地名と共に描かれており、歴史的な資料としても価値の高い文献となっています。以下、一部を紹介すると…

 

心斎橋変電所というのは、地下鉄心斎橋駅の北側、御堂筋の東側にあるのだそうです。昭和十三年に建てられた、りっぱな総タイル張りの三階建てだと、おばあさんはいいました。

『いのち運んだナゾの地下鉄』 44pより

 

追いつめられた人々は、地下鉄の入り口に殺到しました。心斎橋駅北詰めの入り口には、駅員さんがいて、
「あわてんと、ゆっくり降りてください。地下鉄は、動いています!」とくりかえしていました。(中略)
ふしぎなことに、地下には煙も入らず、熱風も吹かず、まるで何事もなかったような別世界でした。
『いのち運んだナゾの地下鉄』92pより

 

警笛を鳴らしながら、難波方面から光の渦がまぢかに迫ってきます。

待ちかねた地下鉄が来たのです。
「梅田行きです。ご乗車ください」
駅員さんがいいました。(中略)

たくさんの命と、これから生まれてくる命を乗せた地下鉄は、真夜中、地獄からの脱出を果たしました。

『いのち運んだナゾの地下鉄』 101-102pより

 

 

「大阪市電気局(現在の交通局)に勤めてるKさんいう人やねんけど、二人とも高校のラグビー部の部員やったんや。そのKさんに連絡をとって、<地下鉄に、すぐ電気を送ってくれ!多くの人命にかかわることや!!>と必死で訴えたんやそうや。もう、深夜のことやし、あちこちの火災のためか、けっきょく上司に連絡は取れずじまいやったんやけど、Kさんは強引に、電気を送る指示を出したんや」

『いのち運んだナゾの地下鉄』 121-122pより

などなど当時の情景のほか、地下鉄の歴史に関しても詳しく記載されています。

 

 

関連リンク

当該エピソードが収録されているのは、第22週「い草の味」(DVD-BOXの3巻目)です。

 

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Photo,Writer :Series207   2017/2/28




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