今から94年前の1926年(大正15年)3月29日。
この日は、現在の大阪メトロの基本ルートとなる4路線・54.48kmが認可された日です。
出典:「大阪市地下鉄建設五十年史」―1953年、369p
「大阪の地下鉄の基礎」ともいえるルートが記された、大阪市高速度交通機関協議会の「高速鉄道計画」と題された当時の地下鉄路線設計の計画書を、今日は皆様にご紹介しましょう。
1号線(19.96km)
豊能郡豊津村榎坂(江坂)~東淀川区北川口町(西中島南方)~国有鉄道東海道線大阪駅~都市計画路線御堂筋~南海難波駅西端~都市計画路線難波住吉線~浪速区市電大国町交差点~国有鉄道関西線天王寺駅南側~住吉区西田辺町~住吉区我孫子町
1号線は現在の御堂筋線。現在とほぼルートが変わりませんね。ブレてない。
なにわの地下鉄によれば、江坂~南方・天王寺~あびこ間は高架の予定であったとあります。この内江坂~(西中島)南方間は予定通り高架になっていますが、あびこまでは地下路線に変更されていますね。
2号線(13.70km)
東成区森小路南端(関目高殿)~善源寺町野江線(都島通)~北区天神橋筋6丁目新京阪電車(阪急電鉄)終点南側~阪神電鉄北大阪線(中崎2北~済世会病院)~国有鉄道東海道線大阪駅~都市計画路線北野線(扇町通)~北区扇橋南詰(扇町)~東区天神橋南詰(天神橋交差点)~都市計画路線松屋町筋~国有鉄道関西線天王寺駅南側
2号線は谷町線のこと。こちらは御堂筋線と違って少し現在とルートが異なります。
起点は関目高殿からスタートし、天神橋筋六丁目を経るまでは現行ルートと同じですが、そこから中崎町より少し北側の中崎2北交差点を通り、済世会病院でぐるっと急旋回。
当時は梅田駅で御堂筋線と大国町駅のようなホーム構造にするつもりでしたので、横並びで御堂筋線と合流、そこからまた急旋回して扇町通を通り扇町へ、また旋回して天神橋(天神橋筋六丁目ではありません)にたどり着きます。
その後は、現在通っている谷町筋より少し西の松屋町筋を南下して、天王寺へとたどり着くルートだった模様です。
また、関目高殿~天神橋筋六丁目までは高架の予定でした。
3号線(3.72km)
浪速区市電大国町交差点~都市計画路線難波住吉線(国道26号線)~西成区玉出町南端
3号線は四つ橋線のこと。
終点が大国町になっていますが、これは大国町から梅田まで御堂筋線と直通運転を行う予定だったからなのだそうです。計画当初では御堂筋線との直通運転のみで十分事足りると想定されていたのでしょう。
ところが、戦後の利用客の予想以上の増加で、四つ橋線は御堂筋線との直通を急遽取りやめ、独自に西梅田まで路線を延ばすことになります。
4号線(17.10km)
港区築港桟橋東側(大阪港)~市電築港線花園橋停留所(九条新道)~西区伯楽橋西詰(松島公園付近)~都市計画路線長堀線(長堀通)~東成区大今里町(今里)~大阪市区改正設計2等大路第1類第19号線(今里筋)~住吉区今林町西端(JR東部市場前駅)~住吉区平野泥堂町(国道25号線杭全8交差点付近)~国有鉄道関西線平野駅西端~住吉区平野西脇町(谷町線平野駅北側付近)
4号線は現在の中央線のことですが、現在は中央線・千日前線・長堀鶴見緑地線と3路線ある東西の地下鉄路線も、当初は1路線で賄う計画だったようです。
大阪港~九条までは現在の中央線と同じですが、ここから長堀通に向けて東進、西長堀駅から長堀鶴見緑地線のルートを通って玉造を超えて今里へ。
今里から南へ進路を変えて大池橋を超えて東部市場前駅付近に到着。東部市場前から国道25号線を通ってJR平野駅、そこから谷町線平野駅北側付近(恐らく南海平野駅と接続)へとゴールする計画でした。
この後、平野方面へは千日前線へと計画を分離し、中央線は深江橋を目指すルートに変更されることになります。
まとめ
基本的なルートはあまり変わっていないのが特筆すべき点ですね。
大正末期~昭和初期に描かれた大阪市街の発展が計画通り行われ、当時携わられた方もさぞ喜んでおられることでしょう。
Photo/Writer:Series207 2015/3/29