今から120年前の1903年(明治36年)9月12日。
この日は、大阪市初めての市内電車となる「大阪市電」が築港~花園橋まで開業した歴史的な記念日です。
大阪市電気局・大阪市営地下鉄・Osaka Metroまでに至る、全ての大阪市内交通機関の幕開けでもあります。
おいたち
明治時代に生まれた大阪市電は、築港~花園橋(現在の大阪港~九条新道)間を結ぶ、日本初の公営電車としてスタートしました。
当時はまだ陸上に輸送機関という存在がなく、徒歩を除くと人力車程度しかない状態でした。
もちろんバスもありません。
一期線がベイエリアに開業したのは、当時大きな船が市内(川口あたりで底が浅くなる)まで入れず衰退していた大阪に再び活気を取り戻すべく、街と港を結ぶアクセス路線として敷設されたのが理由です。
活況を見せる市電
市電は運賃も安く気軽に乗れた為、あっという間に普及・拡大していきました。
戦中(1945年)の最盛期には路線長が116kmにもなり、都心部では驚きの24時間終夜運転を実施。大阪市民の足としてなくてはならない存在になったのでした。
現在走る地下鉄よりも細やかに停留場が設けられており、例えば堺筋では地下鉄堺筋線で1駅の区間である長堀橋~日本橋間に3つの電停(清水町・八幡筋・道頓堀)が儲けられており、足としての使い勝手は良かったのかもしれません。
ただ、駅を増やすということは電車のスピードが遅くなることでもあり、一長一短であるといえます。
廃止へ
戦争も乗り越え、地下鉄よりも早く走ると言われたPCCカー(3000型・3001型)と呼ばれるハイテクな電車が作られるようになりました。
四ツ橋筋を通る南北線では3001型の高性能を十二分に発揮することが出来、梅田~難波でのアクセスは地下鉄四つ橋線よりもこちらの方が早かったそうです。
…が、この頃から自動車の増加による交通渋滞が多発するようになりました。
当時の路面電車軌道敷内は車が乗り入れることが出来たため、自動車の渋滞に巻き込まれて市電も動けなくなる事態が頻繁に発生するようになりました。
またこの頃、市長だった中馬馨氏が大阪港の防波堤工事を国へ陳情した際、対応に当たった田中角栄大臣から「防波堤工事の代わりに市電を廃止してほしい」と頼まれたこともあり、検討の結果、1960年から市電の廃止が始まりました。
その後段階的に廃止されていき、万博の前夜である1969年3月31日をもって大阪市電はその幕を閉じたのでした。
Osaka Metroへ連なる
一方、市電廃止から遡ること30年前の1933年5月20日には大阪市営地下鉄が開業。
大阪市電気局だった運営事業者は、1945年に「大阪市交通局」へと改称。地下鉄は高速輸送機関として着実に足を伸ばしていき、2017年には8路線を擁する大規模路線となりました。
2018年には民営化を実施し、新たに社名を「大阪市高速電気軌道株式会社」、地下鉄の愛称を「Osaka Metro(大阪メトロ)」としてスタートを切り、現在へと至っています。