大阪市営地下鉄の初期車庫構想とは

大阪市営地下鉄の初期車庫構想とは

1933年に開業し、まもなく開業90周年を迎える大阪の地下鉄。

大阪が想定以上の人口増を見せたこともあって開業当時に引いた路線計画通りとはなかなかいかなかったのですが、それ以上にうまくいかなかったのが「車庫計画」です。

路線の予定地もさることながら、広大なその敷地確保の為に何度も計画変更を余儀なくされています。

今日は昭和22年時点で構想されていた、御堂筋線・谷町線・四つ橋線・中央線・千日前線5路線の車庫計画をお話します。

 

御堂筋線・四つ橋線

我孫子 200両収容、23,000坪

下新田 170両収容、19,550坪

※【参考】現在の緑木検車場の敷地は約33,200坪

 

御堂筋線と四つ橋線は当時直通運転を行っていたことから、車庫も同一扱いとして計画が進められていました。

我孫子はかつてあった「我孫子検車場」の場所そのままですが、下新田は現在の南吹田下水処理所(南吹田5丁目35)」あたりになります。

 

このあたりの地図を見てみると、確かに下水処理場・ゴルフセンター・ 公園とまとまった敷地が多数ありますね。

具体的な位置まではわからないのですが、車庫計画はおそらく線路東側のこの土地ではないでしょうか。

 

現在の御堂筋線・四つ橋線の車庫機能は中百舌鳥検車場と緑木車両工場が受け持っています。

 

 

谷町線

都島 220両収容、25,300坪

谷町線は都島に広大な車庫計画がありました。

現在は大日検車場と八尾検車場がありますがこの当時は大日・八尾南共に谷町線の延伸計画自体がなく、守口~天王寺間の予定でした。

 

今回紹介する車庫計画の中では最大面積なんですが、都島のどこに作る気だったんでしょうか…

現在の地図を見てみても、さっぱり見当がつきませんでした。

 

【追記】

総合医療センターのあたりでは?」と補足を頂きました。

確かにあの一帯は広い敷地が用意されていますね…!ありがとうございました。

 

中央線

放出 110両収容、12,650坪

中央線は放出に小規模な車庫計画がありました。今回の計画の中では最も小ぶりです。

 

森之宮でなく放出なのは、当時の中央線が大阪港~放出までの路線計画であった為と、

現在の森之宮検車場敷地であり、当時アジア最大の軍事工場であった大阪砲兵工廠跡地の使い方がまだ定まっていなかったことが理由にあると思われます。

 

千日前線

今里 170両収容、19,550坪

塚本 130両収容、14,950坪

最後は千日前線。中央線とは反対にかなり大規模な車庫計画ですね。

現在4両編成の千日前線(68両)で考えてもかなりのオーバースペック、仮に8両編成まで入れるようにした(=136両)としても今里だけで片手に余るレベルです。

これは当時の千日前線が神崎川~平野と現在とは比較にならないぐらい長い路線、かつ東西方向の主力路線計画であった為です。

西は野田阪神に。東は南巽までにスポイルされてしまったせいで、現在は森之宮検車場が受け持っています。

かつては大阪市電今里車庫跡地の地下に今里車庫もありましたが、2011年をもって廃止されてしまいました。

 

 

後記

上に挙げた車庫計画は、結局のところ我孫子検車場と今里車庫のみが竣工し、残りは全く違う形となりました。

今里も170両収容という大規模なものでなく4連x2編成程度のものですから、本質的には我孫子だけがうまくいった形になります。

その我孫子も沿線住民からの苛烈な反対運動で移転を余儀なくされていることから、車庫計画というのは路線計画以上にうまくいかないものなんだな…と関係者の苦労が偲ばれます。

 

 

関連リンク

【コラム】もし昭和22年の計画通りに大阪市営地下鉄ができたらこうなる

 

 

参考文献

大阪市「大阪市高速鐵道計画概要」

 

 




書いた本



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