【コラム】津守のあの道は何故やたらと狭いのか?

【コラム】津守のあの道は何故やたらと狭いのか?

西成区にある津守1丁目交差点から南側の「高架道路」と書かれた道(鶴見跨線橋)

ここは南海汐見橋線の踏切を渡らずにオーバーパス出来る道路なのですが、何故か異様に道が狭い。

 

普通車でも横幅ギリッギリの道で、横幅2.0mを超える大型車はここを通らずにおとなしく踏切のある側道を迂回するよう指示されています。

一見、鉄道とは関係なさそうなこの道路ですが、実は……

 

大阪市電の線路

ここは、もともと大阪市電(路面電車)が通っていた線路なんです。

大阪市電の橋をそのまんま転用したので、路面電車がすれ違う程度の幅しかないワケです。道理で狭いわけですね…

 

ここを通っていた大阪市電三宝線は、大阪環状線の芦原橋駅から鶴見橋通、北加賀屋・住之江公園を経て堺市の大浜・出島までを結んでいた路面電車です。

元々は阪堺電鉄の路線でそれを買収した変わった経歴を持ったこの路線は、終点の大浜に海水浴場があったことや、住之江公園に競艇場が出来たことで非常に賑わった路線なのだそう。

 

この「阪堺電鉄」は、現在の阪堺電気軌道とは全く別の会社で、通称「新阪堺」。
戦時中、輸送量が追いつかないことに業を煮やした大阪府と現在の国土交通省によって、半ば戦時強制に近い形で大阪市電へと合併させられました。

 

写真の津守1丁目交差点付近は、ちょうど当時の鶴見橋通駅あたりになり、近くにある工場への輸送路線でもありました。

 

大阪市電と(津守商店街を介して)接続していた鶴見橋商店街は、心斎橋筋商店街・天神橋筋商店街に匹敵する賑わいを見せていたのだそうです。

 

 

しかし、時代は高度経済成長期

大阪湾が徐々に海洋汚染の憂き目にあう中で大浜海水浴場が閉鎖

更に、自動車が増え続けた時代でもあり、市電と並走する道路(現在の新なにわ筋)が日常的に渋滞するようになったこと

また堺市からの要望もあって、この路線は1968年9月をもって廃止されてしまいました。

 

 

何故こんなに狭い?

線路だった場所はそのまま道路として転用されたのですが、この盛土構造で作られた汐見橋線のオーバーパスもそのまま道路に転用されたのです。

名を「鶴見跨線橋」といいます。

当時の写真を掲載したページ

 

当時の車は、車幅が広くなると税金が高くなる税制上、細長い車(5ナンバー車、1.7m以下)が多かったのでまだマシだったのかもしれませんが、現在はこの税制が変更されたので幅広の車が増え、若干狭苦しい道路になっています。

木造で作られた橋ということもあってか、4.5トンの重量制限が科されています。

 

 

現在は市電区間を継承した大阪市バス→大阪シティバスの29号系統・89号系統が後を継いでいます。

大阪市バスだったにも関わらず堺市へ足を伸ばしているのは、こういった経緯からなんです。

 

 

遺構がある

そんなこのオーバーパスに、少しだけ路面電車時代の遺構が残っていました。

 

それがこれ途中でぽっきり折れてしまったような鉄柱ですが、これは架線を支えていた架線柱であると思われます。

どういう理由なのか、ここだけが残っていました。

 

他の場所では柱の基礎らしき建築物はあるものの、鉄柱の残骸などはありませんでした。

また橋の入口には「昭和四十四年三月」と建設時期も書かれているようです(未確認)

 

場所

場所は、南海汐見橋線の津守駅が最も最寄りです。

大阪シティバスだと、29号系統(なんば~住之江公園)の鶴見橋通バス停になります。

 

 

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