【特集】大阪の街に一万円札を貼っていた「街の天狗」の話

【特集】大阪の街に一万円札を貼っていた「街の天狗」の話

何気なくネットを見ていると、レファ協発で「大阪の地下鉄に千円札などが貼られていた」という資料を見つけました。

一見奇っ怪な慈善活動を行っていたのは、誰なのでしょうか。

グーグルでもヒットしない」と書かれたこの話について、当サイトが切り込んで調べてみました。

 

過去の文献を見る

結論からいうと、これを貼っていたのは右翼団体の部長、田中秀信氏です。

大正5年(1916年)香川県生まれで、逝去時は阿倍野区阪南町(西田辺駅周辺)にお住まいだったそう。

毎年、師走近くになると、朝日新聞大阪本社ビル横に、一万円札数枚をピンで貼りつけた大きな紙が、大阪人のひるきがりの話題となる。貼紙の主は”街の天狗”となっている。大阪名物数々あれど、師走の街にことしも天狗参上!といった講談調のその主は、右翼活動をする田中秀信氏である(中略)

控え目な声の小さい彼のことだから、そっと”名前は伏せておいて欲しい”とでもいっているのだろうか。

出典:中部財界社「中部財界 金融特集19(4)(336)」、109p、1976年3月

阪南町といえば西田辺駅が最寄りですが、奥様曰く「背広姿に天狗の面をつけて家を出ていた」とあるので、毎年御堂筋線に乗って梅田へ向かっていたのでしょうか。

当時の一万円札というと現在よりも価値のあるものですが、彼をその行動へと走らせた要因は何だったのでしょうか。

日銀の消費者物価指数のページによると、1976年の消費者物価指数は2022年の1.76倍だそうですから、1万円の価値はおおよそ17,600円程度に相当します。

 

世直しをすべく立ち上がる

田中氏は昭和21年(1946年)、30歳の時にビルマ戦線から復員。

友人や知人を戦時の悲惨な死に方で亡くし、また焦土となった大阪を目の当たりにして、世直しを決意したのだそう。

一万円札を貼っていたのはこの活動としての一環で、貧者へ分け与える為のお金と、世に疑問を問う「口上書」もあわせて貼り付けられていたようです。

彼が最初に文献に現れるのは昭和41年(1966年)6月24日で、釜ヶ崎(新今宮駅付近)にて千円札と共にビラが貼られていたとあります。

「釜ケ崎の諸氏に与う……姿なき街の天狗」と書いたごらんのようなビラが二十四日朝、騒ぎの続いた大阪・釜ケ崎のニカ所に千円札をそえて張られていた。

出典:朝日新聞3面「”釜ヶ崎”に姿なき天狗」昭和41年(1966年)6月24日

この日は第6次西成暴動が起きた次の日で、暴動に心を痛めた天狗が世直しをすべく、ビラを貼り付けたようです。

 

海外へも。大阪のお馴染みに

1980年には海外にまで天狗が登場

1980年8月2日、天狗はタイ・バンコクに遠征し、40万円とおなじみの口上書(ビラ)を持って「街の天狗」として参上しました。

尚、この時点で「大阪を中心に毎年歳末が来ると一万円札を街角に張り付け…」と冒頭に記載があるので、すでに当時の社会にとってはお馴染みの存在であったようです

「街の天狗」の場合は、毎年、歳末になると、新聞社や役所の玄関先などに「口上書」と一緒に「歳末天狗義金」と称する一万円札を張り付けて、いずことなく姿を消す。八四年の歳末には、やはり天狗もグリコ・森永事件に関心があったとみえ、21面相に「毒物を使わず、お菓子にお年玉でも添えてバラ撒けばよい」と呼びかけ、一万円札を張りつけたりした。

出典:近藤勝重「大阪スペクタクル (都市のジャーナリズム)」、1985年12月、111p

 

田中氏はこの「天狗」としての活動を40年にわたって続けましたが、1988年に肺炎で体調を崩され、その後大東市の阪奈病院にて急性心不全のため逝去されています。

この活動は当初二代目に引き継がれたそうですが、令和の現代ではその活動について確認できていません。

おなじみの「街の天狗」の口上書が、24日朝、大阪・梅田の阪急電鉄と地下鉄の駅に張られた。1万円札が添えてあり、曽根崎署は寄付として引き取った。
達筆の墨書で「去りゆく昭和の御代に惜別の年一入」「新たに迎える平成の改元に世界平和を祈願」。目撃者はいないが、昨夏亡くなった初代の跡を継いだ2代目の筆らしい。

出典:朝日新聞『年の瀬なにわの街に「街の天狗」の口上書(青鉛筆)』、1989年12月25日

また、上記の二代目と関係するかは不明ですが、京都では引き続き「街の天狗」としての活動が行われているようです。

市役所東向日別館3階のコンシェルジュを高齢男性が訪れ、「今年もよろしくお願いします」と名乗らずに封筒を渡した。封筒は安田守市長宛てで、「体の不自由な方々のために役立てて下さい」と書かれた手紙と現金が入っていた。手紙の内容は毎年同じで、1982年から欠かさず続いている。

出典:京都新聞「40年連続寄付「まちの天狗さん」総額223万円に 市役所に5万円入り封筒」、2022年12月30日

 

ちなみに明確に「地下鉄の駅に」と記載された文献は田中氏の時代には見つからず、新聞社や役所の玄関、警察署や街角などに貼り付けていたとあり、上述した二代目の登場時に「地下鉄の駅」と初めて言及されています。

ただし、当時を回顧されたブログのオーナーによると、「阪神百貨店前の地下街の壁や柱に貼り出していた」と記載があります。

 

団体について

ちなみに、田中氏が所属されていた団体については、各文献で記載内容に違いがありはっきりとしません。

各メディアでは以下のように紹介されています。

・天狗同義修養団 本部長(現代物故者辞典)
・天狗同義修養団 部長(大阪春秋)
・右翼団体(中部財界)
・団体(朝日新聞)
・大日本天義団(憂国箴言)

またこちらのサイトには昭和30年当時の情報を基に、「大日本天義団 団長」として田中氏の名前が掲載されています。

時代の変遷から見ると、「大日本天義団→天狗同義修養団」と名前が変わったとみるのが正しいでしょうか。

 

かすかに残る「天狗」の居城

前節の団体名で検索すると、阿倍野区昭和町10-24にある「国輝ビル」という名前にたどり着きました。

ここは阿倍野区昭和町5丁目10-24にあたり、現在でもそのビルが健在です。

それがこちら。昭和町と名がついていますが、最寄り駅は西田辺駅です。

冒頭で書いた「西田辺駅から天狗の面をつけて…」と一致しますね。田中氏は西田辺をベースとしていたのでしょう。

かつて「国輝ビル」だった場所は、2023年5月からレンタルオフィス「Re:ZONE西田辺」として運営されています。

 

 

年表

・1916年…香川県で生まれる
・1946年…ビルマ戦線から復員。世直しの為に街頭演説を開始
・時期不明…天狗同義修養団体を組織。
・1966年6月…第6次西成暴動に合わせて登場。初めて文献に掲載される
・(この間、天狗としての活動を地道に継続。大阪を中心に知名度を得る)
・1980年8月…タイ・バンコクへ遠征。日本大使館と日本奉仕センターを訪れ計40万円を寄付、口上書を提出
・1984年…グリコ森永事件にまつわる口上書とお札を貼付
・1986年5月…朝日新聞阪神支局襲撃事件にて登場。同紙を激励する口上書、および哀悼文と一万円札を貼付
・1988年7月…大東市の阪奈病院にて逝去、東住吉区の臨南寺会館で通夜

 

 

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参考文献

  1. 近藤勝重「大阪スペクタクル (都市のジャーナリズム)」、1985年12月
  2. 中部財界社「中部財界 金融特集19(4)(336)」、1976年3月
  3. 公安資料調査会「憂国箴言」、1968
  4. 現代物故辞典 1988-90 398p
  5. 大阪春秋 第55号
  6. 朝日新聞 1988年7月19日(大阪版)
  7. 朝日新聞 1980年8月2日(東京版)
  8. 朝日新聞 昭和41年6月24日(東京版)
  9. 渡瀬修吉「北辺之物語 : 埋れた開拓者の歴史」、回天発行所、1971年
  10. レファレンス協同データベース「大阪で昔、夕暮れになったら、地下鉄の入口の壁に千円札などが貼られていた。貧しい者に与えるということで、どこの誰かはわからないが、“まちの天狗”と呼ばれていた。その資料をみたい。



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