JR天王寺駅の北口、てんしばや谷町線天王寺駅がある方向に、怪しい匂いを漂わせる「阪和商店街」があるのを皆さんはご存知でしょうか。
入口が地味すぎ&細すぎで、見つけるのも一苦労なこのアーケード。
中に入ると、昭和時代の建物がそのまま活用されたアングラな雰囲気漂う飲み屋街となっています。
やっぱり闇市がルーツ
元々この地には吉川春雄氏と永田俊雄氏(宝来堂本店、有力な菓子問屋)が協力し、作り上げた闇市「阪和マーケット」が並んでいました。
「阪和」の名前は、この地の前に通っていた「阪和電気鉄道(現在のJR阪和線)」からくるものと思われます。
阪和線はJRや国鉄ではなく独立した私鉄として運営されていて、1940年に南海鉄道(今の南海電鉄)が一旦合併した後、1944年に国(国鉄)が和歌山へのアクセス路線として買収・統合した経緯があります。
「阪和マーケット」が成立したのは国鉄統合後の戦後ですが、まだ「阪和電鉄」と呼ばれていた名残かもしれません。
現代でも「阪急東通商店街(梅田)」や「京阪商店街(土居)」など、電鉄名から採られた商店街の名前が多いのと同じ理由ですね。
両氏は地主へ交渉してこのマーケットを作り、戦後の食糧難にいち早く対応したのでした。
ところが、阪和マーケットは昭和30年7月3日に出火を起こし、大規模な火災となって約50戸近くを消失する損失を被ります。
そこで、今度は燃えないようにと鉄筋コンクリート三階建ての建物を立て、営業を再開したのでした。
つまり、現在の建物は昭和30年(1955年)12月に建築されたもので、そこから約70年近くもの間、一切変わっていないということになります。
また、阪和商店街前を通る玉造筋(道路)は拡幅計画がありましたが、ここら一帯の再開発目処が立たないことから、2013年をもって計画を廃止しています。
大阪ビジネスパーク方向から天王寺駅手前まで来た玉造筋が、天王寺直前で急に狭くなるのはこの阪和商店街の区画整理が進んでいないことが理由です。
現地を歩く
上述したように一帯は元々菓子問屋がずらりと並んでいましたが、段々とその姿を消していきました。
写真右手には最後まで残った「菓子問屋 ワタナベ商店」がありましたが、2021年3月末をもって閉店。
跡地には「海鮮が安いだけの店」が新しく開店するなど、テナントの新陳代謝が大きく進んでいます。
もっとも、昭和30年代に建てられただけに外観はなかなかの昭和レトロぶりを見せています。
「通路」の看板が時代を感じさせますね。これも昭和30年からあるんでしょうか…
上を見上げると、木でできた格子状の転落防止枠?が見え、相当年季の入った建物であることがよくわかります。
このあたりは「阪和会」という自治組織が仕切っているようですね。
入るのにちょっと勇気のいる公衆トイレがありました。勇気を出してちょっと入ってみましょう
…が、トイレ内は思ったより汚くなくてちょっと拍子抜け。飲み屋街向けのトイレとしてきっちりリフォームされていました。
鉄筋コンクリートの法定耐用年数は70年と言われていますが、この阪和商店街も70年が経過しました。
一世を風靡した菓子問屋街も完全に消え失せ、雑多な飲み屋街として今後も君臨するのでしょうか…。
大阪第三の街である天王寺駅前一等地ですし、再開発で大きなビルでも出来たらいいのになぁ…と、個人的には思ってしまいます。
関連リンク
参考文献
- 週刊製菓時報「大阪菓業者名鑑」、1961年
- 大阪市「昭和大阪市史 続編 第8巻 (付編)」、1969年
- 大阪市「長期未着手の都市計画道路の見直し(素案)」